INUJIMA
MAGAZINE ふるさと図鑑
犬島
岡山市|犬島
銅製錬所遺構を保存・再生した美術館
みんなでつくる島の風景
岡山市唯一の有人島、犬島は石の島として知られる。切り出された犬島石(花崗岩)は遠く仙台の東照宮や、鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居、江戸城や大阪城の石垣に使われ、明治以降は大阪港礎石の切り出し場になるなど全国各地へ運ばれていった。1909(明治42)年に犬島製錬所が創業し、最盛期には島の人口は約5000人にもおよんだといわれる。しかし、銅の価格の大暴落により製錬所は10年で閉鎖。また、1935(昭和10)年には犬ノ島に日本硫黄の工場が建てられ、福島県から多くの従業員が移住したが1967(昭和42)年に閉鎖。翌年、跡地に曽田香料の工場が建ち、従業員を引き継ぎ雇用した。時代に向き合い、いろいろな産業で栄えた犬島だが、現在は約50人が島で暮らしている。静かな時間を過ごしてきた製錬所跡は2008(平成20)年に犬島アートプロジェクト「精錬所」(現「犬島精錬所美術館」)として生まれ変わった。その前年の2007年には、経済産業省により近代化産業遺産への認定もされた。2010年からはトリエンナーレ形式で開催される瀬戸内国際芸術祭の舞台となり、日本はもとより海外からも多くの人々が訪れる現代アートの島として定着しつつある。
参考【岡山シティミュージアム 犬島再発見の会 代表 在本桂子】「犬島の歴史」
http://www.city.okayama.jp/museum/inujima-story/island_05.htm
vol.1犬島を愛する人々の
営みや想いを知る
岡山市南東部に位置する宝伝港から犬島までは約2.5㎞、時間にすれば船で約10分ほどで犬島に到着する。潮風を感じながら船に乗り込むと、白い波しぶきをあげて船が進み始め、海の色が次第にキラキラと鮮やかなエメラルドグリーンへと変化していく。
海から眺める犬島の景色は独特だ。赤茶けたレンガ造りの煙突が、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
自然や時の流れを
肌で感じる
犬島港に到着して船を降りてすぐの場所に犬島チケットセンターがある。かつての民宿をリノベーションしたもので、犬島内のアート施設のチケットはこちらで購入できるようになっている。併設されたカフェの窓からは穏やかな瀬戸内海が広がる。チケットを手に海辺に佇むと、市内とは違う植生、気温、風、そして光を感じる。
犬島精錬所美術館は港から徒歩約3分。「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと、10年間稼働した銅の製錬所の遺構を保存・再生した美術館だ。
自然エネルギーである太陽、地熱と、銅製錬所の副産物であったカラミ煉瓦や犬島石などの犬島に由来する素材、そして島の地形や既存の近代化産業遺産を利用。夏は地中での放熱により空気を冷却し、冬は太陽熱による採暖を行う構造で館内の温度を一定に保ち、周囲の環境にできるだけ負荷を与えない施設になっている。近代化産業遺産エリアは黒く大きい煉瓦が存在感を放ち、時が止まったかのような情景が広がっている。
犬島精錬所美術館
写真:阿野太一
犬島は一周約4㎞の小さな島だ。海辺から伸びる小径を歩いていくと、見上げた高台に小さな石の祠(ほこら)を見つける。祠は大山祇命を祀る「山神社」で、かつて石の産地として栄えた犬島の採石業者の守り神として信仰を集めていたという。
ゆるい坂道と迷路のように続く路地を歩き進めると、突如として現れるのが犬島「家プロジェクト」。島に点在する犬島「家プロジェクト」は6件。
犬島「家プロジェクト」はアーティスティックディレクター・長谷川祐子氏、建築家・妹島和世氏による犬島の集落で展開するプロジェクト。集落の中に突然現れるアート作品を、頭の中を空っぽにして島の自然とともに眺める。
犬島「家プロジェクト」F邸
写真:Takashi Homma
犬島「家プロジェクト」S邸
荒神明香「コンタクトレンズ」2013
写真:Takashi Homma
犬島「家プロジェクト」A邸
ベアトリス・ミリャーゼス「Yellow Flower Dream」2018
写真:井上嘉和
ツタが絡まり草に埋め尽くされながら、かつてはそこに人が住んで居た記憶を抱えた空き家、犬島石が積み上げてある石垣、聞きなれない鳥の声、道端に咲く愛らしい花々。さまざまな面影を味わいながら歩くのも面白い。
ラビットチェアに腰かけてひと休みすると、ゆったりとした島時間が流れていた。
島での暮らしを想う
昼食は予約制で食事をいただける「島食堂」へ。風に揺れる暖簾をくぐると、店主の池田栄さんがやわらかな笑顔で迎えてくれた。「今日は鯛を一匹買ってきたからご飯もお汁も鯛尽くし。筍は2日前、ツワブキは夕べ犬島で採ってきたものよ」。島食堂では料理好きの池田さんが、新鮮な海鮮や島の食材で腕をふるう。
池田さんは1943(昭和18)年、犬島で生まれ育つ。42年前子どもの通学の関係で岡山市東区西大寺に家を構えるが、現在も犬島に通いながら島食堂を一人で営み、犬島チケットセンターのカフェ厨房で働いている。「島食堂は『犬島自然の家』のお客さんに言われて始めたんよ。当時は泊まっても食べるところがなくてね。自然の家に台所はあるんじゃけど、調味料がない。遠方から持ち込むのは大変じゃろ。母の住んでいた家が空き家になっていたからここで始めたの」。ごはんをいただきながら話を聞いていると、島の日常が伝わってくる。
犬島にはスーパーがないので、普段の食料品、日用品は、生協で注文して商品を受け取るという。「商品が船着き場に届くと、年をとっている人は若い人に仕分けしてもらうんじゃ。新聞を配る人がおらんから、最近は郵便局の人が配ってくれるようになった」。犬島ならではの食べ物というと、小豆とカボチャを煮て素麺を添えた「南京ぜんざい」。犬島では米が作れないため、麦や豆、芋などが主食だった。カボチャは甘みが強いので、砂糖の量が少なくて済む。「素麺は別に煮ておいて、食べる時に入れるんよ」。幼かった池田さんのご馳走だったという。(「南京ぜんざい」は犬島チケットセンターのカフェメニュー「犬島ぜんざい」として提供されている)。
「思い出」と「新しさ」の
両方を大切に。
池田さんの話は犬島の昔へと遡っていく。「今は本当に少なくなったけど昭和50年ごろまでは家がいっぱいあった。私の小学校の同級生は33人。小学校全体で170人おったかな。八百屋や金物屋、文具店もあったし、呉服屋も2軒、散髪屋も3軒あった。島暮らしといってもまったく不自由は感じなかった」。その後、人口減少が続き、1991(平成3)年に島の小中学校が閉校。犬島の過疎化、高齢化は一気に進んだ。
池田さんが懐かしそうに語ったのは、製錬所跡地での思い出だ。並んでいる煉瓦の上を裸足で走ったジャンケン遊び。「今思えば危なかったけど、誰も落ちたことはないし、大人から叱られたこともなかった。下の方でママゴトをしている子もおったけど、私はおてんばだったから上で走っとった(笑)」。疲れると煙突の中でひと休み。中は人が寝転べるくらい大きく、「夏は涼しくて、冬は暖かかったんよ」。
製錬所跡は、島民にとって特別な場所だった。「自分たちの遊び場だけで朽ちていくのは残念。なんとか残してくれる方法はないかと願っていた」という。だからこそ、「福武財団理事長の福武總一郎さんが犬島に来られて、『ないものはこしらえるけど、あるものはそのまま活かす』『島の人に元気になってもらうような施設にします』という説明を聞いたときは、本当に嬉しかった。島のみんなで喜んだんじゃ」。犬島の新しい歴史が始まる。
アートスポットとして生まれ変わった犬島精錬所美術館は2008年4月に開館。池田さんは当初、「なんだか奇抜でね、よう分からんかった」と振り返る。でも、「福武さんから現代アートは自分の感覚で観るもんじゃ。好きなように考えたらええと聞いて」一気に視界が開けたような気がした。子どもの頃のようなワクワクした感覚が蘇ってきたという。それ以来、島を訪れて会話を交わす人にそのことを伝えている。
愛する犬島を、
もっと元気にしたい
犬島の平均年齢は75歳とかなり高い。でも、池田さんをはじめ元気で温かい人が多い。犬島港で毎月2日間開催される「犬島おかあさんの元気市」では、有志13人が集まり、丹精込めて育てた野菜や手作りのお寿司、コロッケなどを販売している。「みんな得意分野を活かして活動しよる。元気が出てくるんよ。島に来てくれた人との交流も楽しいし」。
また、池田さんは2017年から毎月「犬島新聞」を発行。神社の由来や犬島の昔の生活や工夫、結婚式、敬老会の様子のほか、若い移住者や80代以上の島民を一人ずつ顔写真とともに紹介している。「昔あったことがどんどんなくなってくる。元気なうちに残しとかんと」。猛暑が続く時期の新聞には、犬島ことば(方言)で注意が呼び掛けてあった。「熱中症にならんように水と塩を少しずつ飲まれよ。犬島はお医者さんがおらんから余計気をつけようや」。
(2019年4月取材)
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